先週から接客業属性をもつすべての人にとっての究極魔法ともいえる「ありがとうございます」という言葉について書いています。
言い出しっぺともいえるわたしは、日々の言葉に命を吹き込みたい一心で、熱っぽく「ありがとうございます」とあいさつし続けています。
受け取る人たちは暑苦しく感じておられるかもしれませんが(汗)
もくじ
必ず現れる「難しい人びと」
職場の取引先のお兄さんから、苦手なお客さんのことで悩んでいるという話を聞きました。
こちらに落ち度があるわけではないのに、対面はもちろんのこと、わざわざ電話をかけて来てまでイヤミを言われたり、気に入らないことがあるとすぐに大声をあげたりされるそうで、心に傷を負ってしまったのか夜思い出すと眠れなくなるということでした。
実に気の毒な話だと思いました。
そういえば、以前わたしもとんでもない言いがかりをつけて来られるお客さんの対応に数日間かかりっきりになったことがあります。
そのときは職場全体の業務にも支障が出てしまい、本当に大変でした;;
業種・職域や立地によっても違いますが、接客業をしているととんでもないお客さんに出会うことが多々あります。
そういうお客さんにあたったとき、わたしは事故か災害に遭ったと思ってあきらめて、なんとか最善を尽くすようにしています。
そうすると、無駄な力が抜けるせいなのか、不思議と丸く収まることが多いように感じています。
知足さんは、
「偶然はありません。
あなたが難しいと感じる人びとやものごとに出会うのには理由があるのです。
そのときあなたに期待されているのは、ハラをククリ(腹を括り)、すすんで困難を受けいれ、まごころを尽くして魂と人格を大いに育むことです。
困難に対して、自分自身で正しい意味と価値を与えることが大切です」
といいます。
「ハラをククリ」のところをカタカナ表記にしているのにはちょっとしたわけがあります。
知足さんから「腹をくくる」必要性に触れるメッセージを受け取るとき、「腹をくくる」とか「腹を括り」というふうに表記するとどうもしっくりいきません。
今のところ、「腹」は「ハラ」、「括る」は「ククル」のように、カタカナで表記すると一番落ち着く感じがします。
知足さんが「ハラ」と「ククル」になんらかの特別な意味を込めているのは間違いなさそうですが、説明がないので真意はわかりません。
わたしの直感的仮説ですが、「ハラ」は高天原(たかまのはら)と葦原中国(あしはらのなかつくに)の「原」、「ククル/ククリ」は神さまである菊理姫命(くくりひめのみこと)の御神名「ククリ」を表しているのでは?と考えたりしています。
「ククリ」とは、「括り(複数のものをひとつにまとめあげること、結びつけること)」の意味でしょうから、
ハラをククル=高天原と葦原中国を結びつけてひとつにする
ということではないか?と考えています(その実践的意義については現在考察中です)。
「ありがとうございます」の言葉はイヤなお客さんに効く!
知足さんは、
「『ありがとうございます』のことばは、チガエシのちからをもっています。
難しいと感じる相手に向けて、より明るく、より穏やかに、より丁寧に、まごころを込めしっかりと発することです」
ともいっておられます。
「チガエシ」という言葉の表記法と意味がわかりませんが、相手が投げつけてくる「悪意」が「チガエシ」の機能によって鏡のように相手に跳ね返るイメージが伝わってきています。
また、知足さんは
「あなたがたは常に相手が差し出すものを受け取るかどうかを自由に選ぶことができます。
それがお気に召すのであればありがたくお受け取りになれば結構、もしそれがお気に召さないときには拒否なさって結構です」
といっています。
「相手が差し出すもの」とは、相手の方がこちらに向ける善意・悪意だと考えてください。
知足さんは、こちらが相手の差し出す悪意を受け取らなかった(=拒否した)場合、こちらはなんらの影響を被ることはなく、その悪意がそのまま相手に跳ね返り相手に影響を及ぼす(=ブーメランによる自滅)と説明しています。
では、これらの説示をあわせて考えてみましょう。
悪意を持った難しい相手(=イヤなお客さんなど)に向かって「ありがとうございます」という言葉を明るく心を込めて発することは、相手の悪意の受け取りを明るく爽やかにきっぱりとお断わりすることと同じです(ニコニコしながら「No!」という拒否を高らかに宣言する感じ)。
これは、もし相手の発する悪意を素直に受け取ってしまったらどうなるかを考えてみるとわかります。
他人から悪意を受け取ったら、誰だって悲しくなったり怒りを感じたりするなど、大きな影響を受けてしまいますよね。
そして、平常心で明るく穏やかに「ありがとう!」と返す行為は、「(この一件によってわたしを大きく成長させてくれて)ありがとう!」と宣言することにほかならないわけです。
こちらが受け取りを拒否した荷物(相手の「悪意」)はそのまま相手のもとに強制的に返送されてしまうということですから、こちらは「悪意」を受け取らずに済み、さらにその「悪意」が相手に跳ね返る仕組になっているようです。
これはすごいことです。
「チガエシ」は「道返(反)し」?
当初わたしは、「チガエシ」は「血返し」で、相手の発する悪意(呪詛にも似たもの)を跳ね返す仕掛けの意味では?と考えていました。
石見神楽と道返し
ところが、ある日、石見(いわみ)地方(島根県西部地方。お神楽が盛んなことで知られています)で舞われるお神楽の中に、「道返し」と書いて「チガエシ」と読む舞いがあることを知りました。
この「道返し」というお神楽は、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が悪い鬼を退治するという内容ですが、実は大きな特徴があるのです。
一般的な勧善懲悪のシナリオに基づくならば、敵は最終的には滅ぼされますよね。
ですが、石見神楽「道返し」では、敵である鬼が神に降参し、最後には神に許されます。
すごい筋書きですよね。
「鬼を殺さずに道の途中から返す」というのがこのお神楽の大きな特徴であるわけですが、このことを「道返し(ちがえし)」というそうです。
そこでさきほどのはなしに戻ります。
難しいと感じる人びとに対して、明るく、穏やかに、丁寧に、まごころを込めて「ありがとうございます」の言葉を発するとき、その前提には、そのような状況や相手に対する「受容」と「許し」があります。
そして、相手の存在によって自分の魂と人格を向上させることができることから「感謝」の心の発生・発声へとつながっていくわけです。
これは、石見神楽の「道返し」とどこかが似ていると思いませんか?
(わたしは大きな共通点を感じとっています)
そこでわたしは、知足さんのいう「チガエシ」とは、この「道返し」なのではないかと考えるようになりました。
古事記と道反し
さらに探求を続けているときにたまたま古事記を読み返していたのですが、そこでも参考になる情報を手に入れました。
古事記の上つ巻の中に、「道反之大神」(チガエシノオオカミ)という御神名が見つかったのです。
道反之大神とは、黄泉の国から逃げ帰ってきた伊弉諾尊(イザナギノミコト)が黄泉へとつながる道をふさぐのに用いた大岩のことです。
この場合の「道反し」は、黄泉の世界のケガレによる汚染から清浄な現世を守る機能を持つものと言ってよさそうです。
ここで先ほどのはなしに結びつけてみるのですが、難しい人たちに向かって正しい心で「ありがとうございます」と感謝を送る行為は、そのような人たちが発した悪意による汚染から自分の世界(心と体、環境など)を守る行為であると言えます。
とすると、「道反之大神」と「ありがとうございます」の言葉は、同じ機能をもつものであり、知足さんのいう「チガエシ」とは「道反之大神」の意味なのだと考えることもできそうです。
でも本当は丸い心で唱えたい
今日の記事は、イヤな人に対して「ありがとうございます」を唱えると「道返し」の効果があるらしいよ!という内容です。
でも本当は、イヤな人がどうだとか悪意がどうだとか、そんなことはいっさい気にすることなく、丸く穏やかな心で「ありがとうございます」という言葉を唱えたいし、そういう環境と心境にあり続けたいですよね。
知足さんは、いつでも明るく丁寧にまごころをこめて「ありがとうございます」という言葉を発し続けていると、ある日ふと気づけば本当に幸せいっぱいの「ありがとうございます」で包まれた世界に移動しますよ!という意味のことをいつもいっておられます!
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