知足さんより、「今自分が体験し、あるいは置かれている立場を完全に「我が事(自分事)」として受け容れないと大変なことになってしまうということをみなさんに伝えなくてはいけません」といわれています。
なかなか難しいオーダーですが、なんとかがんばって書いてみました。
もくじ
「我が事」として受け容れる・引き受ける覚悟をすること
これが知足さんがわたしたちに今伝えたいことのナンバーワンみたいです。
このはなしはこのブログのそこかしこに書いていますので、あらためて書くまでもないようにも思えます。
ですが、わたしが腰を痛めて苦しんでいるときに知足さんがくり返し伝えてこられたメッセージというのが
「痛みを受け容れましょう」
「その痛みは『異物』ではありません」
「その痛みもまたあなた自身なのです」
というもの。
激痛を感じるたびに毎回これらのメッセージが飛んでくるわけです(結構辛かったです)。
それもまた自分自身なんだ
ここでとにかく知足さんが伝えたがっておられるのは、「痛みや疾病というのは、それらを含めた総体(つまり丸ごとすべて)が現在の自分自身なのだ」ということです。
そして、痛みも病も全部「自分自身」なのだから、それらは間違っても「やっつけるべき憎い敵ではない」ということです。
わたしの場合、立ったり横になったりして腰や背中に激痛が走り「イタッ!」となったとき、心の中では「なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだ!早くこの痛みを取り去らなくては!」と思っているわけです。
ですがこれは、「腰や背中が痛むのは自分の本来の状態・姿ではない。すなわち、こんなのは自分ではない。」と宣言しているのと同じです。
すると知足さんから上記のようなメッセージが飛んでくるわけです。
「異常」はいつでもメッセンジャー
知足さんは、
「痛みや病というのは、自分自身のすべてを認めて受け容れ、今日のこの時から後の生き方を改めなければならないことを知らせる、きわめて重要な任務を負ったメッセンジャーなのです」
と伝えています。
また、
「その知らせを受け取った人は、膨大な過去の中から生き方に関する誤りを見つけたら、それすらも大事な『自分自身』として憎まずに受け容れることです(そうすると自ずと次の道が開くとのこと)。
これは、今現在自分自身が経験している物事、置かれている境遇を、他人事とするのではなくあくまでも『我が事』として引き受けるということです。
そして、ありのままの「生の自分自身」が神に対していっさいの責任を負い、最善を尽くす義務を負うという真実を知らなければなりませんし、あなた方の誰一人としてこの例外にはあたりません。
だからこそ、あなた方には魂が与えられ、肉体が与えられ、精神と物質からなる数えきれない恵みが与えられているのです。
わたしは『与えられた』といいましたが、これらのすべてはあなた方が神から一時的にに預かったものにすぎないことを忘れないこと」
知足さんのメッセージが長かったので、どこをどう編集すればよいかわからず全文をメモ帳からコピーしました。
わたしは腰の痛みやら仕事上の問題やらが起こるたびに知足さんの「教え」を思い出しては実行するようにしています。
その結果ですが、たしかにあれもこれもすべて含めて「今の自分」なのだと考えることで痛みに対する違和感や異物感がなくなるのか、身構えなくなりました。
腰はまだ完治してはいませんが、快方へ向かっている感じはあります。
また、業務上ただでさえ忙しいところに大きく流れを阻害するような出来事が降って湧くのが人生の常ですが、それらも自分が処理する必要があるのかもしれんな~という「我が事」化をほんの少し心がけてみると、かえって少ない労力で簡単に済ませられるケースが多いことに気づきました。
「あ~、知足さんがいうのはこういうことなんだろうな~」という小さな納得を積み重ねた1カ月間でした。
自分が置かれた境遇・環境を他人事ではなく「我が事」と認識することの大切さについてより具体的なケースを使ったはなしも出てきましたが、長くなるので後日別の記事として執筆します。
とはいえ、体に痛みや傷などの異常を感じたり発見したときには、できるだけはやく医療機関を受診し、医師の診察を受けることが大事です。
置かれた場所で咲こう
シスターであり教育者でもあった故・渡辺和子さんの著書に「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルの名著があります。
以前わたしの母が知人から渡辺さんの書かれたこの本を借りてきたときのことですが、知足さんが「良い本です」とのメッセージを送ってこられたことを思い出しました。
今回記事にした知足さんの説示は、渡辺和子さんが著作を通じてわたしたちに伝えようとされたことと共通するものが多いとわたしは感じています。
渡辺和子さんの名著。おすすめです。