年度末ともなるとまた格別の忙しさがありますね。
わたしの同僚(業務上のパートナー)が、この忙しさで過労気味のところに昨日インフルエンザを発症しました。
さらなる忙しさとインフルエンザの恐怖に満ちたわたしの職場は、今なんともいえぬ緊迫感につつまれています。
おかげさまでわたしはなんとか元気にしていますが、仕事疲れのせいか帰宅後にノートパソコンを起動する気力が湧かず、なかなかブログを書けないことを残念に感じています。
わたしはもともと文章が苦手でして、話すこともあまり上手なほうではありません。
業務上の文書作成や会議での発言などは毎回苦労します。
ブログ書きも同じで、物事をなんとかわかりやすくお伝えしなければという謎の使命感が強すぎるのか、記事がどうしても長文になり、1記事の執筆にかなりの時間を要してしまいます。
まとまった時間がとれなければ満足な記事が書けないというのが最近のちょっとした悩みになっていました。
これについての返答なのだろうと思うのですが、先日知足さんが「長い文章を書かなくてもよいです。あなたが書きたいと感じることを表現できていれば十分です。わずか一文でも、最も表現したいことを書いたのであれば、それを必要とする人は自ずとそこから情報と教訓を得るでしょう。」とのメッセージを送ってきました。
果たして言いたいことが一文で伝わるのかな?との不安を禁じ得ませんが、最小のエネルギー量でこのブログを長く続けたいというのが今のわたしの偽らざる気持ちです。
そこで、今後はこの知足さんのアドバイスを取り入れ、また、あまり記事の順序やつながりにもこだわらず、ゆるめに記事を書いていこうと思います。
感謝の炎を燃え上がらせるための火種とは
さてさて、表題のおはなしです。
今月に入って、知足さんから頻繁にこのように言われています。
感謝することはとてもすばらしいことです。
朝目覚めたら、すべてに感謝しましょう。
夜眠る前に、すべてに感謝しましょう。
実は、これはわたしがもうかれこれ10数年間知足さんに言われ続けていることなのです。
おかげで、わたしは朝起きたら寝ぼけながらあれやこれやに感謝し(たいていそのまま二度寝三度寝します)、夜眠くなるとまたねぼけながらその日のあれやこれやにムニャムニャと感謝を捧げる習慣が完全に身につきました。
感謝の対象は毎回ほぼ自動想起で、先日などは「駐車場に車を置かせてくださってありがとうございます…」などと寝ぼけながらつぶやいている自分に気づき、ずいぶん細かいなぁと思ったのでした。
昨年から知足さんが「今与えられているものに注意を払いましょう。今持っているものに感謝を捧げましょう。」とたびたび言ってこられるものですから、それならばと思ったわたしは、「今それがなくなったらとても困る」と感じるある道具について真剣に感謝の念を捧げていました。
すると、何日目かに知足さんがやってきて、
感謝をすることはとても素晴らしいことです。
ですが、感謝というのは、自分の中に大きな「喜び」の心を満たすことを前提とするものなのです。
ある特定の物事を失うことへの恐怖にかられてその物事の維持を念じるのは「執着」といい、感謝とは正反対の作用をもつ行為です。
感謝するとは、自分自身を恐れと執着から解き放ち、大きな平和と喜びの上に立って、その平和と喜びの感覚とともにそこにあるすべてをありのままに認め、受け容れることです。
と言って去っていきました。
ちなみに、わたしが無くすことを恐れて真剣に「感謝」を捧げていたあるものは、なんとその2日後に壊れてしまいました…。
(本日修理をしてもらい、無事に元通りになりました!)
もしも「感謝」が火だとすると、着火に必要なものは不安や恐れではなく「喜び」なのだろうなと、今わたしはそう考えています。
次回は、知足さんから長年指摘を受け続けてきた「呼吸」についてのおはなしを書く予定です。