7月・8月は霊魂の活動が非常に活発になります。お盆には死者の尊厳にも思いをはせ、敬意を持って過ごしましょう。

配偶者や子どもに怒りをぶつけると相手の魂が死んでしまうことがある

この数年、DV(ドメスティック・バイオレンス=配偶者や恋人など親密な関係にある、またはあった者から振るわれる暴力)と児童虐待に関する話題がしばしば取り上げられるようになりました。

これらは、主に家庭内という、他者が容易に立ち入ることのできない環境において行われる点にその特殊性があります。

 

そして、ほとんどの場合において、これらは突発的に生じた怒りの感情の暴走を原因としているといえるでしょう。

 

今日は、特に配偶者(夫婦)間を念頭において、怒りの感情の暴走と、それによって相手側の心や魂が受けることとなる影響とはどのようなものなのかについて書いていこうと思います。

もくじ

病院にて




市内の病院を訪れていたわたしは、突如として廊下に響き渡った大きな怒声にオロオロとしつつも、何が起きているのかを知りたいという気持ちを抑えることができず、声のする方へと進んでいきました。

意外なことに声の主は一見して温和そうな高齢の男性で、その方が夫人とおぼしき高齢の女性をものすごい剣幕で怒鳴り続けています。

 

夫人のほうはというと、顔全体に湿布薬なのか絆創膏なのかわかりませんがそのようなものをたくさん貼り付けられており、振り返った背中には血液のにじみらしき跡が見られました。

なにがあったかは知る由もないわけですが、このご婦人が重篤な危機に遭遇して負傷し、今しがた手当てを受けたところなのだということは理解できました。

 

怒鳴られている間中、このご婦人は一言も発することがありませんでした。

そして、とてもとても虚ろな目をしておられました。

 

その目を見たわたしは、なぜだかわかりませんが、とても悲しい気持ちになり、逃げるようにその場を離れました。

怒りにさらされ続けた魂は縮む

人心地つけようと病院の売店に立ち寄ると、知足さんがかたりかけてきました。

 

「あの女性の魂は完全に萎縮(いしゅく)しています。

長年にわたって怒りの感情を受け止め続けたことにより、あの方とともにあった神はとうの昔に向こう側へとお隠れになっています。

心はすでに闇の中深くにあり、魂に再び光を映し出すことは容易ではありません」

 

わたしはこのメッセージを受け取ってすぐ、さきほどのご夫婦をみて悲しい気持ちになったわけを理解しました。

もちろん、奥さんが気の毒でしたし、公衆の面前でひどいことをするものだと思い憤りも感じましたが、それだけで悲しくなったわけではなかったのです。

誰の手によったとしても、決して容易にはこの婦人の本来の心を取り戻すことはできないということを直感で理解したというのがその理由です。

 

このとき、知足さんは多くを伝えてはこられませんでしたし、わたしもすっかり気持ちが沈んでおり特に質問をしませんでした。

ですが、わたしが目にした状況と知足さんからの説明によって、あのご婦人は長年ご主人から大声で叱責・罵倒され続けたために精神的な苦痛が限界に至り、完全に心を閉ざしてしまったのだろうと思います。

 

知足さんは「人間は魂を通じて常に神とともにある※)と説きます。

 

「人間は大宇宙とともにある」ともいわれます。

 

また、以前次のようにもいわれました。

 

「人間が神とともにあることを忘れ、自我に支配権を奪われて自分の力だけで生きているとの勘違いをし、その結果怒りや悲しみといった負の感情にがんじがらめにされるとき、人間はしばしば自らとうとい神を足蹴(あしげ)にし、岩戸の向こうへと突き飛ばします。

ひとたびこうなると、その人が再び神と出会うことはとても難しいのです」

 

行き過ぎた怒りは、その怒りに支配された本人だけでなく、その怒りをぶつけられた相手の魂をも萎縮させ、人間本来のあるべき道を歩むことを著しく困難にしてしまうということなのでしょう。

できるサラリーマン夫と精神を病んだ妻

わたしがかつて仕事で関わった人のなかに、大きな企業で営業部門の責任者を務めておられる、いわゆる非常に「できる」サラリーマンがおられました。

この方は、職務に関してはこれ以上にないだろうというほどに優秀で、驚異的な実績を上げ続けてこられた方です。

ですが、この方と一緒になると、きまっていつも奥さんの悪口が始まるのです。

いわく、「うちのはダメ」、「あの女は役に立たない」、「うちのはなにもできない」…。

ご縁があって結ばれた夫人のことをなぜそこまでこき下ろせるのかと思ったものです。

 

ほかの方から伺った話では、「あの旦那さんは子育てからなにから家のことは一切奥さんに任せきりで、本来なら頭が上がらないはずなのに、家ではたとえ来客の前であろうとおかまいなしに奥さんの不手際をあげつらっては怒鳴り散らすんだよ…」とのこと。

 

ある日その旦那さんが奥さんを連れてお見えになったときのこと。

すっかり怯えきった虚ろな目をした奥さんが旦那さんの一挙手一投足に絶えず注意を払い続ける様子が尋常ではないと感じて非常に気になりました。

後になって人から聞いた話では、この奥さんが精神を病み、強力なお薬の副作用なのかすっかり廃人のようになってしまわれたとのことで、わたしは心から気の毒に思ったのでした。

 

今になって思えば、あの奥さんも長年旦那さんから怒りの感情を投げつけられ続けたことにより、その苦しみから心が闇に包まれ、魂が縮こまってしまったのかもしれません。

これが、知足さんのいわれる「神が向こうに隠れる」という状態なのでしょう。

 

魂が神とともにある、というのが人間の本来の、そしてあるべき状態なのだとしたら、怒りにさらされ続けて神を見失った魂というのは、もはや死んでしまったも同然ではないかと思えてなりません。

「怒ってはならない」とは

知足さんはよくわたしに「怒ってはいけない」といいます。

ですが、これは「言うべきことをはっきりと言う」、「自分の気持ちをしっかりと表現する」ことを禁じるものではありません。

知足さんは、

「『伝えるべきことをきちんと伝えることは大切です

ともいいます。

 

もっとも、知足さんは、

「すべての表現は、目的を定め、感情を正しく制御し、不要なものを切り捨てたうえで行わなければなりません」

ともいっています(わたしが感情に任せて物を言ったとき、後でこのようにたしなめられたことがあります)。

 

知足さんは、自分の感情だけから生じる「怒り」の表現を見逃しませんし、認めてもいません。

「それが正しい『愛』に基づく表現であるならば認められることもある」とはいいます。

 

もっとも、世の中には、「怒る」ことが必要なケースも多々あるでしょう。

部下やお子さんの真っすぐな成長を願って、あるいは人命の危険が生じかねない状況で最悪の事態を回避するために等々…。

 

「怒る」ことは、わたしたち全員が、今ここで真摯に考えてみなければならない、とても重大な問題なのではないでしょうか。

 

知足さんはいっています。

「相手を『闇に追いやる』怒りを、今すぐにでもこの世界から追放しなければなりません」

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